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#11 ■1971.5~6  シングアウトの本格的導入

  “Sing Out”とは本来、フォーク・シンガーが主導して観客・聴衆を促し、その場の全員がひとつになって歌う行為、あるいはそうした状態を意味する。アメリカでは40年代の労働運動の時代、60年代前半の公民権運動の時代によくみられた光景だ。米国フォークのオピニオン・リーダー的な雑誌は『Sing Out!』という誌名だったし、日本では60年代末の新宿“西口フォーク・ゲリラ”も、手法としては同じスタイルだったと言える。


  しかしその後、日本での「シングアウト」の意味は大きく変質する。要は大勢で歌うこと。ニュー・クリスティ・ミンストレルズやバック・ポーチ・マジョリティ、セレンディピティ・シンガーズのような比較的多くのメンバーで構成されたフォーク・グループのスタイルを踏襲することに取って変わった。60年代後半、MRA(道徳再武装=米国の右派団体)が主宰して日本全国を巡演したフォーク・レビュー“レッツ・ゴー '67”や、70年初頭からNHKが放映していた『ステージ101』、古くは、しばしば渡辺プロ系の音楽番組でバック・コーラスやダンスを担当したスクールメイツなども、いくばくかのインスピレーションになったと思われる。


  ウンチク話はこれくらいにしましょう。ともかく多くの他大学のフォーク・サークルが、部員全員で歌うこの手法を採り入れていた。慶応の「KWFMA」(世界民族音楽研究会)のようにシングアウトのみで、バンド活動は一切やらないというところさえあった。ASFがシングアウトを試みていたことは前述のとおりだが(#05#08参照)、このスタイルでの活動を本格的に採り入れたのは、あまりにも部員数が急増し、中には楽器の演奏がまだ未熟で、バンドやグループが組めない部員がいたし、全員の参加意識を高めようとしたことがひとつの理由だ。ともかくここで「シングアウト」が部員必須の活動となる。


  もうひとつの理由には、他大学のフォーク・サークルの大半がシングアウトを主な活動として採り入れており、まだ新進サークルだったASFも、他大学に倣おうとしたことが挙げられる。5月、日比谷野音で開催された9大学主催のフェスティヴァル「関東学生フォーク連盟~Major 9th」を一部有志で視察。全大学がシングアウトを披露していたことから、各大学のフォーク・ソング・サークルの大半において、シングアウトがメインストリームだということを知る。


  同じころ早稲田大学「WFS」のコンサートも視察している。各種フォーク・グループの演奏のほか、ここでもシングアウト形式の演奏が行われた。その演目の中には「キープ・ミー・ハンギング・オン」などがあり、バックはエレクトリックのロック・バンド。シングアウトではこういう演奏スタイルや、ジャンルを問わない選曲が可能だということも認識した。


  こうしてASFも水曜日の活動日は、主にシングアウトの練習に充てられることになった。もっとも、シングアウトに強制的に参加させられることには反発もあり、「バンド活動に集中したい」「演奏形態としては古くさい」と思う部員も多かったはずだ。しかし他方では、バンドを組んでいない部員に参加の機会が与えられるという大きなメリットがあり、部員の結束には不承不承参加していた者も含め、一定の効果があったと思う。"A" "B" "C"間の競争意識も生まれて熱くもなれたし、やってみれば思いのほか、達成感があったのだ。


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